大和織部を求めて「金本卓也 作陶展」

天衣無縫の造形美と、
進化する緑釉。

生命力あふれる緑。荒々しく削られた石や岩肌。
古都の悠久の時が生み出した、自然のあるがままの姿。
奈良で「織部」の作陶に挑む金本卓也は、
その複雑で不安定な造形の中に、深遠な美を見いだす。
「織部」とは、型に縛られず新たな美を追求する自由の精神。
そう捉える金本が、心に深く染み込んだ大和の風景を、
自らの目と手を通して土に宿し、誕生したのが「大和織部」だ。
土が導く表情を探し、大胆に力強く動かしていくため、
成形の技法は「刳貫(くりぬき」を好んで用いる。
激しい起伏を伝う緑釉の濃淡が土の表情を際立たせる。
観る側の想像力を掻き立てる、奔放な歪みと独自の釉調。
奈良の地で開花する、織部の新たな可能性をご高覧ください。

  • images織部刳貫花器H 41.1 × W 30.5 × D 18.0 cm
  • images織部刳貫花器H 41.0 〜 46.5 × W 12.5 〜 17.0 × D 12.0 〜 13.5 cm
  • images織部鉢H 25.3 × W 48.2 × D 33.0 cm
  • images織部鉢Φ 36.1 × H 22.2 cm
  • images織部壺H 38.5 × W 36.3 × D 35.0 cm
  • images織部丸皿H 6.0 × W 42.0 × D 42.0 cm

芸術の原風景と出会う大和織部を求めて金本卓也 作陶展

心に映る悠久の自然と、織部の精神が融合する。

戦国後期〜江戸初期に、古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり、通称「古田織部」)という武将がいました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らに仕え、さらに千利休の弟子として活躍し、やがて天下人の茶道指南役を務めた茶人です。

「織部」とは、一般的には美濃焼の一つで、歪みのある造形や大胆な絵付けなど、古田織部の好んだ斬新で奇抜な意匠のやきものとして知られています。代表的なものは緑釉を施したもので、これは織部釉とも呼ばれています。織部の定義は今なお研究が続いており、その解釈は陶芸の枠を超えて語られているのです。師である利休の「新たなことをせよ」という教えの通り、古田織部は師とは異なる世界観を茶の湯で表現した革新的な人物でした。織部という言葉に、伝統の技と自由な発想を融合させる、奔放かつ懐の深い精神性を感じ、多くの人々が魅了されてきたのでしょう。

そして、「大和織部」という新たな境地に辿り着いたのが、奈良で生まれ育ち、作陶されている金本卓也先生です。絵を描くことが好きな少年で、一度は会社勤めをされるも、自らの手でものを作ることへの情熱から陶芸の道を選ばれたそうです。愛知県立窯業高等技術専門校を卒業後、三重県で尾張藩の御用窯である御深井焼(おふけやきを作陶しておられる武村豊徳(あつのり)氏に師事されました。武村氏は、瀬戸の名門である二代目 加藤春鼎(しゅんてい)氏に弟子入りされていた方で、ろくろの名手として知られています。瀬戸の流れを汲む武村氏の工房で作陶を学ぶ日々。そこで、金本先生は織部を始められ、次第に織部の可能性に惹かれていくなかで、大胆で力強いやきものを作りたいと志し、2003年、28歳で奈良市の帯解(おびとけにて独立。理想の織部を模索し、土、成形技法、釉薬など試行錯誤を繰り返しながら、独自の道を歩み始めます。師から技を学び、やがて師とは異なる新たな美を追求する姿勢は、まさに織部の精神に通ずるものと言えるでしょう。

奈良は、悠久の時を刻んだ自然と街並みが一体となった場所。目に映る大和の風景が金本先生の心に刻み込まれ、表出したものが大和織部です。自然の造形を美へと昇華させる技と、変化に富んだ味わい深い緑釉。「大和織部を求めて 金本卓也 作陶展」、まさにいまここから、新しい織部の物語が始まろうとしています。

緑ヶ丘美術館 館⻑ 菅野⼀夫

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<数量限定>一筆箋 30枚綴り 2種
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<数量限定>レターセット 封筒3枚・便箋10枚組 3種
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